2014年1月16日木曜日

班目氏、3年目の証言 「あり得た、フクシマ最悪の筋書き」

 福島第一原発事故の、いわゆる最悪のシナリオには、「溶融燃料とコンクリートの反応による水蒸気爆発で事態が悪化し首都圏にも避難指示」というシナリオの他に、「高圧溶融物放出で核燃料が格納容器の外に飛び出し、手のつけようのない事態になる」というものもあった。 斑目氏は相変わらず自己正当化に終始し、どこまで本当のことを語っているかは疑問だが、国民の生命財産が、最悪の事態になればなるほど、このような人たちにゆだねられるような構造になっていることは事実である。

以下引用日経新聞 科学記者の目 2014/1/10

 班目氏、3年目の証言 「あり得た、フクシマ最悪の筋書き」 
編集委員 滝 順一
 東日本大震災で起きた福島第1原子力発電所の事故当時、原子力安全委員長だった班目春樹氏(東京大学名誉教授)。原発事故時には政府に技術的助言を与える立場にあったが、的確な助言ができなかったとして非難を浴びた。2012年夏に退任して以来、表舞台に出ることはほとんどなかった同氏がこのほど日本経済新聞の取材に応じた。
 その中で班目氏は、溶融核燃料が格納容器の外に飛び出る最悪の事態を一時想定したことを明らかにした。また現在の原子力防災の体制については、福島の教訓を十分にくみ取っていないとも指摘。首相の近くにいて事故対応にあたった班目氏の証言や分析は今後の原子力行政を考える上で参考になりうる。当時を振り返りながら、弁明も含めて重い口を開いた。
■「部屋で行われていることが何かわかっていなかった」
福島第1原子力発電所の事故当時、首相の近くにいて対応にあたった班目春樹・前原子力安全委員長

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福島第1原子力発電所の事故当時、首相の近くにいて対応にあたった班目春樹・前原子力安全委員長
 ――東日本大震災の発災時にはどこにいたか。
 「(3月11日の)2時46分には原子力安全委員会(霞が関の中央合同庁舎4号館)のオフィスにいた。1時間ほど過ぎたころ、原子力災害対策特別措置法に基づく10条通報(全交流電源喪失)があり、やがて15条通報(非常用炉心冷却装置注水不能)もきた。原子力災害対策本部が立ち上がるはずだが、連絡がなかなか来ないので、行って待っていようと考え、首相官邸へ行った」
 「15条通報の文書には、原子炉への注水ができず炉内水位が見えないので、念のため通報するとあった。このことから私は、直流電源(蓄電池)は生き残ったと思い込んでいた。水位計は壊れていて水位が読めないのだなと楽観的に考えていた。直流電源は少なくとも8時間、おそらく半日くらいは十分にもつだろうから、早く電源車などを確保して直流電源を維持すればよいと考えていた」
 「19時ころに原災本部の会議が開かれたが、このときは地震と津波の対策協議が主で、原発はそれほど大きな話題にはならなかったと記憶している。私に発言の機会はなかった」
 「その後いったんオフィスに戻ったが、官邸から呼ばれ、21時ころに官邸地下の危機管理センターの横にある中二階の小さな会議室に初めて入った。政治家の人たちが大変心配していて、これからどうなると尋ねられた。部屋には原子力安全・保安院の平岡英治次長(当時)らがいたが、質問に答えられなかったのだと思う」



班目氏の行動(3月11日)

14:46 地震発生(原子力安全委員会オフィスに在席)

15:42 10条通報(1~5号機の全交流電源喪失)

16:00 安全委臨時会議を開催し緊急技術助言組織を立ち上げる。臨機応変の対応を宣言

16:45 15条通報(1、2号機の非常用炉心冷却装置注水不能、直流電源喪失の連絡はなかった)

17:40ころ 首相官邸へ。電源車の調達を知り、是認

19:03 原子力災害対策本部開催(発言機会なし、20:00ころいったん安全委オフィスに戻る)

21:00ころ 官邸へ。3km圏内避難指示、炉心損傷を防ぐため注水とベント(排気)を助言
 「海岸近くにある冷却系施設が津波で壊れているはずだから、(炉心で発生する)熱の捨て場がない。熱を捨てるには炉心に水をぶち込んで、水蒸気の形で熱を空気中に出すしかない。熱の捨て場を確保する目的で、ベント(排気)をしてくださいと進言した。この時点では炉心が溶け始めているとは思っていなかった」

 「また周辺住民の避難に関して、私が3キロ圏の避難を進言したことになっている。ここは記憶があいまいなのだが、国際原子力機関(IAEA)の予防的措置範囲(PAZ=Precautionary Action Zone)が3~5キロだと承知しているので、3キロではどうかと問われれば、それでよい、国際的な考え方からも予防的に避難させるべきだと答えたに違いない。すでに福島県が2キロ圏内の避難を指示していることもおそらくそのときに聞いたはずだ」

 「後から振り返れば、私はこのとき部屋で行われていることが何かわかっていなかった。原発事故の際には保安院の緊急時対応センター(ERC、経済産業省別館)で指揮がとられることになっていた。ERCでは指揮がとられていて、私は政治家の人たちに解説をすればよいのだと思っていた。ただ矢継ぎ早の質問に対し、私は何の資料も原発の図面すらなく、ただ記憶だけで答えていた。11日の夕方には原子力安全委員がオフィスに集まり始めていたが、官邸地下の危機管理センターからは携帯電話がかけられず、助けを得られなかった」

班目氏の行動(3月12日)
0:55 1号機格納容器の圧力上昇の情報
電源車到着するが、電源復旧できず、電源盤損傷の疑いを抱く
3:00ころ 2号機の隔離時冷却系(RCIC)運転の情報を確認(危険なのは1号機と判断)
5:00ころ 首相の現地視察への同行依頼を受ける
5:44 10km圏内の避難指示
6:14 菅首相に同行しヘリで官邸を発つ(機内で首相に水素爆発の説明)
7:11 福島第1原発へ到着(到着後、ベント未実施を知る)
8:04 福島第1原発を出発
10:47 官邸に帰着し安全委オフィスに徒歩で戻る
12:08 原子力災害対策本部の会議(11:35呼び出し受ける)
13:00ころ 福島県選出国会議員への説明(13:30ころ以降は首相応接室に滞在)
15:18 1号機のベント成功の情報。その後、海水注入の問題点を議論
15:50ころ 1号機で白煙発生の情報
17:00ころ テレビで1号機爆発を確認、水素爆発と直感。その後、菅首相の求めで久木田委員長代理を推薦
19:30ころ 安全委オフィスに戻る
22:05 原子力災害対策本部の会議(再び官邸)
24:00過ぎ 帰宅
 ――事態が当初の見込みよりはるかに深刻だと気づいたのはいつごろか。

 「深夜を過ぎたころに1号機の格納容器の圧力があがっていると聞いたときに、これは変だと思った。ひょっとしたら、直流電源が止まっていたのかと疑った。それにしても1号機は非常用復水器(IC)によって自然循環で冷やせるので(電源喪失には)強いはずなのに、とも思った。その後、電源車のケーブルがつながらないとか、ケーブルがいくらあっても足りないとか耳にしたとき、配電盤も水没して、ポンプなどひとつひとつに電源をつなぎ込んでいるのかと推測した。現場で何が起き、どうしようとしているのかが(官邸にまで)伝わっていなかった。人間の心理は極端から極端に振れる。私は非常に絶望的な気持ちになっていた」

■「安心したことが間違いだった」

 ――前夜に進言したベントは明け方になっても実行されていなかった。

 「前夜とはベントをする意味が大きく変わっていた。このころになると、炉心が溶けて(水蒸気やガスで)格納容器の圧力が高まっていると推測できた。格納容器を(破損から)守るためにベントが必要になっていた」

 ――早朝になって、避難指示の区域を10キロ圏に広げている。

 「炉心が溶けているとすると、3キロでは足りないと思った」

 ――それほど悲観的に事態をみていたのなら、早朝にヘリコプターで現場に向かう菅直人首相(当時)に同行し、機内で「水素爆発はない」と話したのはなぜか。

 「首相から炉心が露出したらどうなるか問われた。水素ができると答えると、爆発が起きるのかと問い返された。そこで格納容器の中は窒素で置換されていて(酸素はないので)爆発は起きませんと答えた。この説明は誤りではない。菅元首相は著書で、私の言葉を聞いて安心したのが『大間違いだった』と書いているが、私の説明に誤りはない。そこで(首相が)安心したことが間違いだった」

班目氏の行動(3月13日)
3:40ころ 自宅で原子力安全委事務局からの電話
5:00ころ 官邸へ(官邸到着前に安全委オフィスで他の安全委員らと意見交換)
この間、3号機の高圧注水系停止などの事態が進む
10:04 原子力災害対策本部の会議
13:55 安全委オフィスに戻り、官邸の状況を説明
14:35 官邸へ
この間、保安院の安井氏らも加わって、3号機の水素爆発の可能性を議論
15:30 官房長官記者会見に同席(これ以降、数回)
21:35 原子力災害対策本部の会議
久木田委員長代理と最悪のシナリオを議論。政治家にメルトスルー後のコンクリート反応を説明
 「ヘリに乗る直前に、これからベントを行うとの連絡を聞いていたように思う。現地に着くまでにベントは実施されるものだと思っていた」

 ――とすると、ベント直後の発電所に降り立つことになるが、ヘリに乗った人たちは防護服を着ていなかった。

 「防護服のことなど考えもしなかった」

昨年11月時点の東京電力福島第1原発
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昨年11月時点の東京電力福島第1原発
 ――ヘリから降りた菅首相は「なぜベントを早くやらないのだ」と東京電力の武藤栄・副社長(当時)をいきなり怒鳴りつけたとされている。首相はベントが実行されていないことを知っていた。

 「首相と武藤さんとの会話を聞いていないが、首相はどこかで(ベントの未実施を)知らされていたのだろう。私は免震重要棟の会議室で知らされた。首相がベントのことを強く言ったのは、機内で私がベントの必要性を強調したせいかもしれない」

■「食い違いがあることに気づかず議論をしていた」

 ――12日午後に1号機で爆発が起きたとき、どう思ったのか。

 「映像を見た瞬間に水素爆発だと思った。その時の記憶はあいまいだが、下村健一・内閣審議官(当時)の書いたものよると、私は『建屋に水素が漏れて、建屋には水素があるので爆発した』と淡々と説明したとされている。多分、事実だろう」

 「この爆発を機に、首相は私の言うことを信用しなくなった。『安全委員会にはほかに専門家はいないのか』と問われたので、『久木田豊委員長代理(当時)も詳しい』と答えると、『すぐに呼べ』と言われたので、久木田さんに来てもらい、私はオフィスに戻った」

 ――1号機の爆発のあった時間帯は、海水注入の議論をしていたころでもある。

 「(海水注入の議論の中で)『再臨界の可能性はあるか』と首相から問われたら、『可能性はある』と答えたとしてもおかしくない。私には尋ねられた記憶がない」

 「実は水素爆発の前の時点から、海江田万里・経産相(当時)が議長になって海水注入の問題点を総理応接室(官邸5階)で話し合っていた。塩が析出し腐食も問題になるので長期間は無理だが、いまは炉心を冷やすことを何より優先し海水を入れろと私は主張していた。首相が海水注入を止めるよう言うはずはないと思う。海水注入中断の問題は、国会事故調査委員会などが指摘するように東電の武黒一郎フェローの勝手な判断が介在していたように思う。いずれにしても、吉田昌郎所長(当時)の判断で注入の中断はなかった」

 「後に福山哲郎・官房副長官(当時)はじめ、政治家の人たちの著書を読んで気がついたのだが、みなさん再臨界イコール核爆発だと思っていたらしい。再臨界が仮に起きても核爆発とは違うことは、JCO事故などからも明らかだ。食い違いがあることに気づかず議論をしていた」
 ――その日は深夜に自宅に戻るが、すぐにまた官邸に呼ばれる。

 「ほとんど寝ていない。ただ13日になると、いろいろな専門家から見解を聞く余裕が出てきた。とくに久木田さんとの意見交換は貴重で、その時点で最も怖いのは高圧溶融物放出(HMT=High-pressure Melt Through)という現象だと意見が一致していた。これは溶融燃料によって圧力容器の壁が溶けて薄くなった末、圧力容器内と格納容器の圧力差によって燃料が容器を突き破って外に飛び出す現象だ。格納容器の壁まで貫通してしまう恐れがある」

 「14日の3号機の水素爆発の後、2号機の逃がし安全弁を急いで開くように助言したのは、2号機でHMTが起きるのを心配して、圧力容器と格納容器の圧力を均一化した方がよいと考えたからだ。吉田所長はまずベントの準備を整えてからと主張していた。安全弁を開くと圧力容器内の水が水蒸気となって格納容器に流れ出し、燃料が空だきになる恐れがあるので、注水の備えがないと安全弁を開けない。難しい判断だ」

 ――そう考えると、原子炉の底部から溶融燃料が落ちたのは不幸中の幸いと言えるか。

 「そうとも言える」

 ――14日夜から東電の撤退問題が浮上する。

 「撤退問題の議論は3つの段階を経たように思う。海江田経産相が伊藤哲朗・危機管理監(当時)と安井正也・保安院付(当時)と私を呼んで、東電が全員撤退を考えていると伝えた。私は免震重要棟があるのでまだ頑張れるはずだ。いったん撤退してしまうと二度と戻れなくなり、1号から6号まですべての原子炉と燃料プールが危機にさらされると、撤退に反対した」

 「その後、政治家だけの相談があり、首相を起こして御前会議となった。撤退は許さないが結論で、清水正孝社長(当時)を呼ぶことになった」

班目氏の行動(3月14日)
9:53 原子力災害対策本部の会合(この後、首相応接室を退去し官邸5階の小部屋などに滞在、呼び出しに応じ応接室へ)
11:01 首相応接室のテレビで3号機水素爆発を確認
11:40 官房長官記者会見に同席
13:40ころ 東電から福島第1で働く人の線量限度引き上げの要望、国際基準などを関係者に説明
16:15 吉田所長と電話で話し、2号機逃し安全弁の開放を急ぐよう助言
18:00ころ 20~30km圏内の屋内退避を首相に助言、福山副官房長官室で米国へ提供する情報の整理
21:03 官房長官記者会見に同席
■「清水社長がその場でごまかそうとしたとの印象はまったくなかった」

 「清水社長は一人で総理執務室に入ってきた。清水社長が即座に『撤退は考えていない』と話したので、私は『聞いていたのと話が違う』と思った。清水社長がその場でごまかそうとしたとの印象はまったくなかった。なにか誤解があったのかもしれない。ただ経営者としてこのままでは部下が死ぬ可能性があると思ったとき、ほかに手だてはないかと考えていたとしてもおかしくはない」

 ――緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の情報は住民の避難に活用されなかったが、本当に使えなかったのか。

 「不確実性が大きく、今回のような過酷事故の際には使えない。3~5キロのPAZの住民はまずとりあえず避難する。次に実測値をもとにどちらの方向がより安全かを判断して避難の範囲や方向を見直すのだが16、17日時点では実測値が少なく、それだけでこちらがいいと言えない。(実測データから)逆算して汚染状況の地図を作製したのが23日だ」

 「そのデータをみる限り、小児甲状腺等価線量で100ミリシーベルトを超え避難基準に達する恐れがある地域があるので、23日の朝に久住静代・原子力安全委員(当時)と一緒に、官邸に一報を入れに行った。枝野幸男・官房長官(当時)に会い説明した。昼夜戸外にいると仮定した厳しめの見積もりだと説明したところ、『それならただちに避難ではなく計画的に進めていくから』と言われた。その日の夜に記者会見してデータは公表した」

 ――今回の経験から何を教訓とすべきか。

 「チェーン・オブ・コマンド(指揮命令系統)が機能していなかったのが最も深刻な課題だ。トップが現場からの要請・要望を集め指示を下して解決に導くという仕組みがまったく機能せず、例えば東電本店は発電所からのニーズに耳を傾けず、余計な介入してばかりいた。発電所と本店、あるいは発電所と保安院といった組織と組織の間のコミュニケーションに問題があった。原発事故に対する訓練では、組織間の意思疎通がうまくいくかが重要で、発電所の中で閉じた訓練をしていてはだめだ。米国では事故の際に、緊急事態管理庁(FEMA)が大統領から全権を委任され関連省庁や軍にも指示を出せる。原子力規制委員会(NRC)は助言役に徹する。はっきりした仕組みがある。3.11後の日本にそれがあると言えるか」

班目氏の行動(3月15日)
0:00前 安全委オフィスへ戻り、仮眠
2:00ころ 官邸に呼ばれ、2号機の危機的状況を聞く
3:00過ぎ 首相応接室で東電撤退に関し意見を聞かれる
4:00ころ 菅首相と清水東電社長との会談に同席
5:35 東電本店での統合対策本部設置に同席
6:14 東電本店の小会議室で重大事象発生を知る。後に4号機爆発と認識
10:00ころ 安全委オフィスに立ち寄った後、官邸の福山副官房長室へ
12:53 原子力災害対策本部の会合
この間、官邸と東電を数回往復し。主に東電本店で、ホウ酸水注入やヘリによる4号機プールの状況観察・放水の可能性を議論
22:10 安全委オフィスに戻り,仮眠
 ――事故は防げたと思うか。

 「防げた。津波が襲来してからではどうしようもないが、設計時の想定を超える状態(設計拡張状態=Design Extension Conditions)で、安全機器が働くかをちゃんと確認し改善していれば、できた。非常用発電機の設置場所とか、1号機の非常用復水器の弁が緊急時に閉まる設計であったとか、災害前に見直していればよかった。それができなかったのは、設計時の想定を超える事故を考えるとなると、設計基準事故(Design Basis Accident)をもとに出した設置許可の取り消しにつながる議論が起きかねない。そこを心配してきたのだろう」

 「ただくしくも、事故の起きた翌週に安全委員会は設計基準を超えた事故への対策に関しシンポジウムを開く予定だった。保安院は3月中に作業部会を立ち上げて検討を始めることになっていた」

■取材を終えて

 班目氏が想定した「高圧溶融物放出」は「第2の最悪のシナリオ」とも呼べるものだ。事故からほぼ1年後に、民間の事故調査検証委員会が通称「最悪のシナリオ」と呼ばれる文書の存在を明らかにした。菅首相の指示により近藤駿介・原子力委員長が中心となって作成された。溶融燃料とコンクリートの反応による水蒸気爆発で事態が悪化し首都圏にも避難指示が出る可能性を指摘した。高圧溶融物放出でも核燃料が格納容器の外に飛び出し、手のつけようのない事態になった恐れがある。

 班目氏の話は記憶があいまいで、言い訳めくと感じられる部分がある。当時官邸にいた複数の政治家の記録で、同氏は頼りにならない専門家だとのレッテルを貼られてきた。しかし班目氏が事故当日、自らに何が期待されているかがわからなかったとする証言はリアリティーがあり聞き逃せない。政府中枢に必要な情報を提出し事故対応の前面に立つのは原子力安全・保安院であるはずだ。保安院付の肩書を与えられた資源エネルギー庁の安井氏が登場するまで、保安院は事実上、機能していなかった。おそらく官僚機構全体が事故に即応できなかったと推測される。そこにこそ重い教訓があるはずだ。

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