2012年4月12日木曜日

玄侑宗久氏講演会聴講メモ 2012.4.11 上智大学

「フクシマ」以後の世界

カタカナの「フクシマ」になってしまった。本来、福島はハッピーアイランドということだった。


3号機が爆発した時点で、前年10月からプルサーマルの運転が始まったことを知っていた住民は、ただ事ではないという感覚を持ち、避難者があいついだ。自分は、15日葬式があったので、町にいなければならなかった。ちょうど雨が降り、着ていた紫の衣が濡れた。大熊町などから役場の人も避難していたため、精度の高い線量計があり、測ってみると、三春町で15日14:00が最大の線量8μSv/hというとんでもない値を示していた。数日後に発表になった国を値は、これよりはるかに低く、その時点で国、県は信頼できないと認識した。すべてがそこから始まった。


天皇陛下が被災地を訪問された際、「人々の雄々しさに深く胸を打たれています」と発言された  。ブータン国王は「日本に対する深い親愛の情」を伝えに来てくれた  。「雄々しさ」「親愛の情」は、市場主義や経済的な価値観とは異なる目に見えないもの。


東北は、もともと奥羽と陸奥で、明治以降東北と呼ばれるようになった。東北は丑寅の方角で、鬼門にあたる。鬼とは異なる価値観を持つ人たち意味する。昔から中央の征服に抵抗し、最後まで残った拠点には、鬼のつく地名が残っている。東北には、中央の経済的な価値観に基づかないあり方を探るべきである。


この目に見えないものとは、後で触れる放射能ももうひとつの目に見えないものだが、「利他」に他ならない。『利他的遺伝子』(利他的な遺伝子  ヒトにモラルはあるか 筑摩選書 柳澤 嘉一郎)というのがある。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』は有名だが。人類の利己的な遺伝子は旧く、利他的な遺伝子は新しいという。新旧の間に社会の形成があった。肉体的に他の動物より劣る人間が、地球上で生き抜くためには社会の形成が不可欠だった。他人の経験を自分のことのように認識するミラーニューロンというのがあり、利他の遺伝子を目覚めさせる。


お化け・幽霊は「いる」「いない」という問題ではなく、「でる」「でない」という問題で、自分の頭の中にそれに対するソフトがあれば「でる」がソフトがなければ「出ない」ことになる。今回の津波は、誰も経験したことがないため、目で見ても、経験に基づいてそれを自分の認識に置き換えることができない(ソフトがない)ものであった。


「最悪の事態に備える」ということは、医療で言えば、インフォームドコンセントである。余命3年程度と判断される患者に対して、最悪を考えたら2年、最良でも5年ということなら、医師は2年と告げる。これで医療としては責任を追求されることはなくなる。しかしそれによって、確実に患者は2年で死ぬという傾向になる。プラシーボ効果(偽薬効果)によって、あと5年生きられると言われれば、より長く生きられるというのが人間である。宗教的に言えば、残り2年と告げるのは「呪い」で、5年と告げるのは「祈り」である。


放射能の影響をLNT仮説で評価するのは、放射線防護の考え方であり、実際にどうかは解らないと言うべき。低線量被爆の問題もお化けが出る出ないが脳のソフトの問題であるのと同じと考える。人間はそう簡単には割り切れないメンタルな存在ではないか。


大人より細胞分裂が早い子供の方が影響を受けやすいと言われてものも、ベルゴニー・トリボンドーの法則という、ラットの生殖細胞による実験結果で、精原細胞、精母細胞、精子をくらべて、精子より若く細胞分裂頻度の高い精原細胞の方が影響を受け易かったというものを一般化しただけのもの(注*チェルノブイリの調査結果から子供の方が心電図異常が出やすいことなど細胞分裂とは関係のない有意な影響が証明されている)。子供の方が体外への排出も早いことからも、子供の方が影響を受けやすいというのは仮説にすぎない。最近、セシウムの影響に対しては子供の方が強いという実証結果を南相馬市の医師が出した。子供の甲状腺にセシウムは蓄積されておらず、子供は癌になりにくいという結果だった。ヨウ素については事情が違うが。


新しい基準値で、水が10Bq/kgになったが、日本の名水のベクレルは0.24~99まであり、10ベクレルでは飲めない水がたくさん出てしまう。(注*水の10Bq/kgはセシウムの値であり、玄侑氏の言う0.24~99ベクレルはラドン濃度である。現状、全国の水道水でセシウムが出ているところはない  。


今回、原発があって普段ならお目にかかれない様々な人達と出会った。他の宗派の人達とも会い、各地から様々な支援ももらった。知り合いがいるからというだけで多くの支援をしてくれた人。神戸市からは、ちょうど一年前の4月11日震度6の地震があった後、屋根瓦が落ちたため、雨露をしのぐために必要となったブルーシートを880枚も届けてくれた。人々は眼に見えない『心』の問題に目覚めた訳であるが、同じく眼に見えない放射能にはどう対応するべきか。それは、坊主にくけりゃ、袈裟まで・・で、脱原発だから何が何でも放射能は許せないということとは、また別物ではないか。

石破議員に聞いた話では、原発を持つこと自体が、核抑止力になっているという認識があったという。しかし、核は一度使用すれば、世界が破滅するということはみんなが解っている。決して使用することはできないものである。使用できないものであるなら、そろそろ核の傘は閉じるべきではないか。


【感想】:玄侑氏はもちろん立派な僧侶であり作家であり、日本の知識人の一人である。しかも、実際に被害地である福島県に住み、現地の実情を熟知され、実際に日々の行動を実践されている。何も批判できる点はない。氏が言われる通り、放射能は眼に見えぬものとしてあるが、心とは全く異なるものであり、これまでの経験知の中にない、つまり、私たちの脳のソフトに存在しない問題である。これまで、エスタブリッシュされた日本の思想家とか知識人の放射能観を見ると、やはり放射能のことがよく解らないために大胆に、あるいはどっちつかずな判断をされている例が多いような気がする。自らの知識人としての立場に自信を持っている人ほど、そういう傾向が強い。男性に多いのだが、国家主義的・観念的な視点から、個人の被爆問題をとやかく言うのは国のためではないというような論調まである。今回、玄侑氏の講演には、そのような浅く観念的な視点は少しもなく、深く事態をご自身の経験から考え抜いた内容であった。しかし、放射能に関してはやはり情報不足ではないだろうかと思われる点もなかった訳ではない。どんな立派な知識人でも、人格者でも、事故の前にまったく学んだ事がないものなので、若いネットワーカであろうが老練の文学者であろうが、条件は全く同じだと考えるべきである。そのことに気づいいている人だけが、放射能に対するより正しい知識を身につけることができるとも言える。今回の講演は、宗教の壁を越えた、「東日本大震災追悼の集い」ということだったので、宗教者としての立場を前面に出されたせいか、放射能への対応の仕方については、予防学的なあり方より、宗教者としての捉え方を強調されたと受け取れた。放射能の影響については、楽観的な祈りの心で対処するというのはそういう意味であろう。別のところで氏は、予防的なあり方(最悪を想定)と楽観的なあり方の中道を行くということを言われているので 、単なる楽観論者ではもちろんないのだが、「子供は放射能に強い」というような話は、それだけで特別な言説となってしまう恐れもあり、聴く立場としては全体のコンテクストをよく踏まえて、趣旨のありかを抑えておく必要があるだろう。ちなみに、私は、すでに大量の被爆をしてしまった人達に、それ以上の被爆は大した問題ではなくなった状態という条件付きでなら、子供の方が癌に強いんだというかどうかは別として、宗教者的な祈りの言葉をかけるべきだろ思う。しかし、一時減少したものの、年が明けてからさらに放射性物質降下量が増加している現状や、時間を経て現れる晩発性の障害、食物呼気を通じて今後長時間受けるであろう内部被爆の問題があり、大量の被爆をした上にその様な継続的な低線量被爆が複合することの未知の怖さを考え合わせるとき、やはり、まだ暫くは予防学的な対処方法を軽んじるべきではないと考えている。



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